2020.5.29

もう夏がきたと言わんばかりの暑さが続いて、ビールで喉を潤す夜に終わりが見えない。

 

今日は映画「こんな夜更けにバナナかよ」を観た。

筋ジストロフィーを患う鹿野と、彼を支える田中らボランティアの人間ドラマだ。

序盤は鹿野がボランティアに対して「正直」で「対等」に振舞う様子が、傍若無人な印象をもって描かれる。

後半に向かうにつれその印象は薄れていき、彼の信念というべきか、固い決意や覚悟といったものが強調され、寛大な人物とされていくように感じた。

 

病院や母親の介助を拒絶し「自立」した生活を叫びながら、「人間は誰でも他人に頼らなければ生きていけない」とボランティアに諭す様子は一見矛盾するようにも見える。

 

母親ら肉親の手助けとは子に対する愛情、すなわち「無償の愛」から発生するもので、そこに彼の意思は存在しない。つまり「自立」していない。

しかし、いま彼の周りでボランティアに参加する人々が彼を慕う気持ちはそうではない。

彼がまだ独りだったときから懸命に活動を行い、悪戦苦闘して集めた「家族」が彼らであり、それは彼自身の力で手に入れたものだ。鹿野はそうしたことをもって「自立」した生活と標榜していたのだと思う。

 

本作品では「正直」に「本音をぶつけ合う」ことが「対等」な付き合いであり、善い生き方だというメッセージが強く主張されていたと感じる。

それはヒロインみさきが学歴詐称を打ち明けた後に大学を再受験したこと、クライマックスで田中が自分の心に正直になり、再び医師になることを志したことからもうかがえる。そして二人とも夢を叶えたことがラストシーンで明らかになる。

 

ただ、前半におけるボランティアに対するぶっきらぼうな命令口調や、タイトルにもなっている常識を外れた指示を与えることが「対等」な付き合いなのかどうかという点については、疑問が残った。

たしかに田中は「対等」になりきれない存在として描かれていたように思うから、「対等」になるためにはあの場面では「夜更けにバナナを買いに行くのは危険です」と断ることが正解だったということだろうか。

ヒロインのみさきが鹿野に好意的になっていく描写も拙速であるように感じた。

 

だが彼が家族やボランティアを愛し、彼らに愛されたことは紛れもない事実だろう。

彼の生き方が絶対だとは肯定しきれないが、否定することもできない。

 

体の不自由な人と、健常者の「対等」な付き合いというのは、答えのない問いであると思う。

しかし同様に、忘れてはならない問いでもあると思った。